玄天黄地

学生時代、箸にも棒にも掛からなかったアホの子が、やっと普通のアホになれるか?

犬猿の仲

 嫌いではないのだけど、あまりうまくつきあえない人が確実に存在する。
 情けないことに、母親はその代表である。まあ、おかげでマザコンとは無縁の人生ではある。


 実は、子供の頃はどちらかというと母親べったり系だったように思う。身体が虚弱で、医者にもあまり明るくない未来を予言されたことがある。母親は泣いたり頑張ろうと思ったりした挙げ句、そこそこ溺愛系の育て方をした。母親が優しくなかったのは、息子に勉強を強いる時だけだった。


 大人になった私は、母の溺愛は不要になった。子供にとっては、男にとっては、当たり前のことだが、母はなかなか理解できなかったようだった。だからよく衝突した。“なぜ、御前は、この私の愛情を受け入れないのか。この親不孝者め!”よく、そういう意味の言葉で責められた。


 さすがに今では彼女もセーブすることを覚えたようだが、それでも時折昔の風が吹く。親の顔を立てねばと思っていても、長年の経験は延髄反射のように私を反発させてしまう。事情を知らない知人は、大人げないとか親不孝だとかいう。言い返すのが億劫だから、“俺が悪いよ、ごめんね、ごめんねー”と栃木流に受け流して、“真面目に聞かんか、ぼけー!”とさらに怒りを招いたりする。


 でもね。


 グルーミングが嫌いなの。


 自分の問題は、親も恋人も上司も友人も、誰にも解決してもらえない。彼らが不親切なのではない。これは自分の問題でしかないのでね。
 家族の会話、友人たちの会話の中には、グルーミングの要素が強いものが多い。たわいない話をして共感し合ってまた明日も頑張る、という人が多いことは分かっているし、そういう人の悪口を言うつもりはないのだけど、自分はそういうタイプではない。実力以上に褒められると気分が悪くなるし、ちやほやされるのは今でも嫌いだ。ただ、すてきな人(男女を問わず)が近くに来ると、尻尾を振っている自分がいる。尻尾は振るが、それ以上のことはしない。話は良く聞くし、聞かれれば答えるが、自分から話す時は相手へのサービスになる時だけだ。


 母は、こんな息子が歯がゆいらしい。“なぜ、オマエはグルーミングで嬉しそうにしないのか?”と不思議そうにいわれたこともある。少なくとも兄弟はまだグルーミング嫌いな私を理解していない。彼/彼女は私と違ってグルーミングが好きだからというのも理由だろうけど。


 父は、母と違って、グルーミングがそれほど好きではないらしい。息子を可愛がったのは夫ではなく自分なのに、息子が夫と気が合うのが今でも不満らしい母ではあるが、グルーミングせずになんとなく群れている雄犬同士だから気が合うのだ、ということは感覚的に理解しづらいのだろうな。



「ひとりの午後に」上野千鶴子 を読んだ夜