稽古の意味
毎晩、布団に入って眠くなるまでの間、iPhone の詰将棋を解くことが習慣になってきている。
400題のうち9割は2分以内に解け、2割は20秒以内に解けるのだが、それでもたまに(昔一度解いた詰将棋なのに)10分考えても分からないものがある。
これが自分の実力なのだと思う。
調子が良い時は、10問以上連続して、見たとたんに詰手順が浮かぶ。しかし、ダメな問題に引っかかると、ひどい時には諦めて寝てしまい、翌日「ああそうか」とばかりに解く羽目になる。
詰め将棋だけでなく、仕事の能力やメンタルの力も、こういう波があるのではないかと思う。自分では毎日変わらないつもりでいても、実は能力にはかなりの日較差があるのではないか。
プロの棋士は、こういうことはないのだろうな。プロでいるためには、いつでも安定して力が出なければならない。まあ、メンタルなスポーツでは必ずしもそうでもないようだが。プロは、安定して力を出すために稽古するんだなと、今更気づいた。麻雀の売人が毎日積み込みの練習をするのも、柳生兵庫介が毎日剣を振るうのも、みな、本番で不覚を取らないためなんだ。
仕事の調子はどうやって整えるのか、この年齢になってもまだよく分からない。安定して力を出すためには、規則正しい生活をすればよいのだが、下手をすると「毎日わずかずつパフォーマンスが落ちる」生活に嵌るだけかもしれない。毎日好きなように生きるのも、ダメな日はダメな日と割り切れる身分でないと辛い。ドツキ合って経験値を稼いでレベルアップする、というRPG的なキャリアアップは分かり易いが、それだとしばしば痛恨の一撃を食らう覚悟も必要である。
若い時に稽古をもっとしておけば良かった、と今更気づいても後の祭りである。まあそれでも、今からでも稽古をするしかない身分であるが。