玄天黄地

学生時代、箸にも棒にも掛からなかったアホの子が、やっと普通のアホになれるか?

5月3日の写真(その2)

 【道の駅たのはた】から、引き続き南下していきます。写真は、すべて撮影時刻順です。まだ、のどかな写真も多いですが、田老までくると一挙に悲惨な映像が出てきます。


道の駅たのはた】で撮影。落書きだらけの鯉幟が見えたので、近寄ってみたところ、震災復興の寄せ書きだった。

鯉幟はこんな感じで翻っていた。

鯉幟が係っている木橋の上から(ただし、立入禁止区域の手前で撮影)。谷を挟んで左右の台地の高さが揃っている。

先ほどの鯉幟。この黒い子の落書きが目だって、驚いて近づいたのだった。

道の駅南側の思惟大橋から東向きに撮影。こちらも、谷を挟んで左右の台地の高さが揃っている。

思惟大橋北詰。下をのぞき込むことができない。岩手県の沿岸部は、こういう深い谷が何本もある。昔は橋が架かっていなくて、谷を降りて上流側で川を渡るような迂回路を何度か通った記憶がある。この橋は昭和59年完成だそうで、自分が最後に来た時よりもほんの少し後である。

思惟大橋北詰、西側。こちらからは下をのぞき込むことができた(実は結構危険な場所)。昭和58年に迂回したと思われる道路が遙か下に見える。

岩泉町役場小本支所の看板。実は、三陸鉄道北リアス線小本駅の構内に設けられている。

一応鉄っ気のある私、駅構内に登ってみました。

駅北側の景色。

駅南側の景色。ちなみに、島式ホーム(すれ違い可能)な駅は、この付近ではそれほど多くないらしい。

震災後のダイヤは1日4本、通学通勤を考慮したダイヤでしょうね。ちなみに、小本より北は、田野畑−島越間の線路が流出(その1の末尾に掲載した数枚の写真参照)のため、島式ホームの小本駅で折り返しとしているようだ。小本−久慈間は運転していないのだろう。

駅南側の景色。遙か向こうに水門が見える。手前の被害はそれほど目だたないようだ。

駅舎とホームを結ぶ通路のポスター(1)。ホント、癒される。

駅舎とホームを結ぶ通路のポスター(2)。こういう地方の駅までこういうポスターが貼られる時代なのね(笑)。

熊の鼻の南側から撮った。海成堆積層が傾斜しているのがよく分かる地形。この小島の上の松は、多分多数津波で流されたものと推定。

引き返して小本集落北端、小本川水門の西詰付近から撮影。橋の向こうにも流された物が見えている。

小本側河口付近から左岸の防波堤を見る。一目、健在。水鳥が多数浮かんでいた。

同、足下。手摺が強烈にねじ曲がっていて、津波の圧力の強さが分かる。

同、小本港すぐ背後の防波堤を裏から撮影。越流と洗掘の跡がよく分かる。もう少し越流と洗掘が進めば崩壊していたものと推定される。

同じ場所から南西側を撮影。防波堤内側にあった数軒の民家はあとかたもない。

田老、長内川河口の水門。上部構造物が激しく損傷している。また、左右の防波堤は消滅している。

上の水門を西側から見たところ。手前の防波堤は、基礎がどのようになっていたのかも分からない位に破壊されている。

同じ場所から北東向きに撮影。正面に見える【たろう観光ホテル】までの距離は約500m、その間遮る物がなにもない(全て津波にやられた)。念の為に書くが、見えている場所は防波堤の内側である。

望遠モードで【たろう観光ホテル】を撮ってみた。3階までは完全に水没した形跡が見られる。

同じ場所から南東側を撮影。漁港の周りの建物は鉄骨が曲がってしまっている。

同じ場所から南西側を撮影。先ほどの水門から西側の防波堤は、リブを残して全て消滅している。向こうに立っている二人は、調査の腕章をつけた大学の先生方。

先ほどの写真で先生方が見ておられたあたりに残っていた構造物に登って西側を撮ったもの。手前の防波堤が無残。その奥の防波堤は健在のようだが、津波は越流して向こう側も洗い流している。

同じく構造物上から南を撮ったもの。防波堤の外側の構造物は土台も残っていない。目の前のコンクリート塊はおそらく防波堤の一部だと思われる。